上の写真:界木峠の西側に広がる”大長根”と呼ばれる古から木がなく草原で、界木峠側から西の遠野側をのぞみます。冬季は吹雪が    すごくて遭難することもあったという場所です。ここには街道としての道跡はなく、旅人はそれぞれが思い思いに歩きやすい場所を歩いたとのことです。ここから150m程度で古の(今の林道の峠ではない)界木峠に達します。そこから東側には旧道跡が残っています。

2023年9月6日 公開開始。

2024年1月30日 更新

 

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ここで使用した国土地理院地図はすべて山野目辰味が加工したものである。

 地図上に記録した赤線の旧街道跡は、ほぼ実際に旧街道跡を確認し踏査し、Garminで正確に道筋を記録したものである。

 

調査目的・趣旨等については、「岩手三陸近世浜街道を往く」https://www.kinsei-iwate-hamakaidou.jp/をご覧いただければ幸いです。

A.大槌(和山)街道 概略

 

  大槌街道とは、遠野から土渕村、山口村を通り、厚楽沢に沿って山を登りゆき、界木(境木)峠を越えて、赤柴川に沿うように東に往き、

和山に達する。和山が遠野と大槌のほぼ中間地点であり、双方からの駄賃付けなどが必ず通った所で、街道名の”和山街道”の由来になった重要な交易場所でもある。和山を過ぎると初神、切石(きりし)峠を抜け、赤坂、上台(わんだい)から砂場、芳形を経由し、種戸坂を下って、小鎚川沿いを東に下り、小鎚、大槌に至る重要な街道であった。現在この街道,厚楽から種戸坂を下りきるまで、街道沿いに住民はいない。そうした状況であるため、旧街道が草生したり荒れたりしているもののよく残っている。

 岩手県歴史の道調査報告書“大槌・釜石街道”では、この街道筋の状況について、叢化しており、地理に詳しい人の案内がないと歩くのは困難、のように記載あるが、踏査した状況(同報告書の約50年後の状況である)では、界木峠から赤柴間、切石峠付近の一部はそのような状況ではあるもの上台から芳形、ようぐら、種戸坂から種戸川縁に至る旧道は一部荒れている所はあるが、概ね良好に残っている。

 同街道は、一つの街道全体がまったく人の住む集落などを通らず、遠野の田尻から種戸坂下の種戸川目までほぼ旧道の形を維持したまま残っている稀有な旧街道と思われ、後々にも保存されていって欲しい旧街道であると強く思われます。

 またこの街道の一面は”遠野物語の道”でもあり、この街道にかかわる様々な話が「遠野物語」に載っています。

 以下の説明文では大槌と和山が街道名として混在することはお許しください。

 和山街道は、遠野市内の宇迦神社を起点とする。一里塚が築かれていたかは確かな記録はなく不明であるものの、一里塚の起点でもあった。 旧道は北上し上組丁の桝形を出て、早瀬川を渡り現在の国道340号線となり遠野郷八幡宮を傍を通る。その先谷地には”右はおおつち、左ははやちね”の道標がある。さらに行き似田貝で国道とは別れ似田貝や本宿の部落内を北東に往く。この道筋には部落内にも多くの石碑が残っている。

 旧道はバイパスと別れ似田貝の部落に入り、本宿から火石へと現在のままよく残る集落の旧道を東に向かいます。途中には多くの石碑が道脇に残ります。火石のバイパスの交差点を横切り直進すると、北に向かう小国街道との追分に達します。追分には多くの石碑が集められており、その一つが道標となっています。大槌街道はその追分を東に直進していきます。

 小国街道との追分から東進する旧道は、旧山口村への別れをさらに東進し、田尻で古一里塚跡を通り、大洞の新一里塚を通り一の渡で厚楽沢をわたります。厚楽までは旧道は市道と一致し、沢沿いに市道から右手にわかれ、旅籠跡のある厚楽を通過し沢の北岸に沿って山間に入り少しずつ登りにかかります。この坂は”厚楽坂”と呼ばれていました。南北の山が徐々に狭まってくる沢の北側の河岸段丘を街道はいきます。山間が最も狭くなった場所が水飲み場となっていて、そこに石碑が二基佇み、古は盛んに行きかう旅人を見守っていました。現在倒木やがけ崩れで一基の石碑は倒れてしまっていました。そこから100mあまり行くと砂防ダムの建設のため旧道はその部分では消滅しました。しかし100m程度東から沢沿い北の斜面を旧道が再び残っています。その東で市道が南に折れ、沢と道が交差する所では、沢沿いに旧道は不明となります。周囲を探索すると、旧道も山の斜面をU字状に上るのが認められました。そこから平坦な沢沿いの林にはいり少し行くと、遠野物語にも登場する、新田乙蔵じいの”お助け小屋”のあった場所を通過します。そこには広葉樹の森の中に一本の一位の木が立っています。旧道はなんとか残っており、グリーンロードを斜めに横切り、旧道跡が残る斜面を登ると、昔から木が生えていない”大長根”に達します。そこは一面草地などのため、決まった道筋がないため、旅人は思い思いの場所を歩いたとのことです。界木峠はもうすぐです。

 なお、県教委比定の街道ルートは林道になっているが、これは近代に造成されたもので、新界木峠の林道開通記念の石碑でも新たに作られた林道であることは明らかであり、旧街道とは異なるものである。

 厚楽沢や厚楽坂の名前にある”厚楽”は街道の旅籠があった所の地名でもあり、その旅籠を営んでいた厚楽家の苗字の元になった名前です。柳田国男の遠野物語の物語の元となった言い伝えを柳田に伝えた、旧山口村村長も務めた佐々木喜善さんの養子に入る前の苗字が

厚楽でした。父は喜善が母の御腹にいた時に急死し、出生後まもなく佐々木家の養子に入った、とのことのようです。

 旧界木(境木)峠は、いろいろな峠を書いた本などでも、近世の峠が正確に記録されたものはみあたりません。現在の林道の界木峠を旧界木峠としている記録のみです。旧界木峠は現在の林道の現界木峠から200数十メートル北側にありますが、林道の峠付近から直接いく道はありません。峠から東に森の中をいくと旧界木峠の旧道がしっかり残っています。和山街道について最も詳細な記録と思われる釜石市教育委員会歴史の道「笛吹街道と大槌街道 下巻」でも界木峠は現在の林道の峠としています。大槌町の郷土史家徳田健治さんの大槌街道の記録が最も正確な峠の位置を記録しています。旧界木峠を東に往くと、”ジョウニンドコ”を下ると林道を斜めに横切り、林道の南側で

赤柴川との間を旧道は往きます。道跡は残り、大野平、さらに赤柴川をわたり(水量にもよるが長靴でなんとか渡渉できた)そこに、掘割道があり、少し登り七里峠となる。同峠からは3筋ほどの旧道が森の中の広くなった平坦な地形を東に下り、赤柴川を渡り、赤柴となる。そこから牧場となっており、牧場内の旧道は不明である。瀞渡りからは風張(かざっぱり)から滑坂となんとなく草原の中に道跡があるものの、草地の中を東に往き、滑坂を小さな峠を越えて沢沿いに下り山の間に至ります。坂を下り、ヨ川を渡ると、和山に向かう登坂となります。

 上図に記録した街道各所の名称は、前述の笛吹街道と大槌街道に掲載している、盛んに旧道が使用されていた頃、そこを行き来した駄賃付けの人々が呼びならわした地名とのことです。

2023/11/23踏査

種戸坂:2023/12/24踏査


<参考文献等>

・国土地理院標準地図

・今昔マップon the web:埼玉大学教育学部 谷 謙二

・ひなたDIS:宮崎県デジタル推進課

・大日本陸地測量部大正2~5年発行 1/5万地図

・釜石市教育委員会 釜石市文化財調査報告書 第十八集 歴史の道「笛吹街道と大槌街道」下巻 平成五年

・岩手県教育委員会 歴史の道調査報告書「大槌・釜石街道」昭和五十六年

・岩手古文書学会、平船圭子:三閉伊日記 解読文 昭和六十三年

・徳田健治:大槌街道調査資料

 

  (敬称略)